日本の生業と、世界の似たサービス > 絣織元(備後絣)
江戸時代末期、芦品郡(現・福山市)出身の富田久三郎が、経糸・緯糸の絣になる部分を竹の皮で巻いて井桁絣を作ったのが起源とされる
| 日本|絣織元(備後絣) | 世界|インドネシア・インドの絣(イカット)織元 | |
|---|---|---|
| アプローチ | 経糸・緯糸のくくる部分を竹の皮で巻いて防染し、藍で染めてから織ることで「井桁絣」等の柄を出す。木綿地で日常着・野良着として発達した | 経糸・緯糸を植物染料や蝋で防染し、複雑な絵絣(動物・人物文様等)を表現する。絹地を用いて儀礼・祭祀用の高級品として発達することが多い |
| 使う道具(日本側) | 竹の皮、織機、藍甕 | |
| 使う素材(日本側) | 木綿糸、藍 | |
⚠ 「使う道具」「使う素材」は日本側のみ調べています(世界側は同じ条件で確かめられていないため、 世界側の比較値は作っていません)。
もうひとつの世界の対比例=アフリカ・西アフリカのアディレ等の防染布(藍染め×防染という技法の系統が近い参考比較)
備後絣は木綿の産地であった備後地方で、日常着として大量生産される実用品として発達し、幾何学的なくくり模様に絞り込まれた。東南アジア・南アジアの絣は儀礼布としての性格が強く、絵柄の複雑さそのものが価値になった
| 事業者数(現在) | —(未確認) |
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| 事業者数(ピーク時) | —(未確認) |
| ピークの年 | —(未確認) |
| 統計の基準年 | ─ |
| 後継者不足度 | ★★★★★ |
| 統計の出典URL | ─ |
最盛期に年間300万反を織った産地の技術基盤と、竹の皮でくくって藍で染める「井桁絣」の技法が失われる
組合の解散(2024年3月31日)、生産者が数社にまで減少、後継者不在
数字はすべて、その場で出典の名前と取得日を添えています。確かめられなかったことは「確かめられなかった」と書いています。
備後絣を長く支えてきた備後絣協同組合は、2024年3月31日に解散した(備後地域地場産業振興センター公式サイト、取得日2026-09-15)。同じ振興センターのページには、備後絣について「江戸時代の末、福山市芦田町に住む富田久三郎氏が、麦藁屋根の押し鉾竹がすすで汚れて白と黒とに染っているのにヒントを得、木綿糸をつむぎ、手で括り、正藍で染めて、絣織物を作ったのが始まり」とあり、「今からおよそ160年前、文久絣と名付けて販売されました」と続く(同、取得日2026-09-15)。組合という組織そのものは無くなったが、これは備後絣という織物そのものが消えたことを意味しない。
中国経済連合会が運営する「中国地域の歴史ある地域産品」のページでは、富田久三郎についてもう少し具体的な年号が示されている。既に絹織物の技法を応用して新種の綿織物を開発していた富田は、取引先問屋から絣の製作を勧められて研究に着手し、1853年に初めて絣を完成させ、1861年には洋綿糸を用いてより精緻な絣を製作した。そして明治初年の1868年、大阪市場の伊藤忠商店との取引を開始し、備後絣の名を全国に広める量産の道を開いたという(中国経済連合会「中国地域の歴史ある地域産品」備後絣ページ、取得日2026-09-15)。振興センターの「今からおよそ160年前」という表現と、この1861年という年は、ほぼ重なる。どちらも同じ出来事を指していると見てよさそうだ。
備後絣が最も多く織られたのは昭和30年代(1955〜1964年ごろ)で、年間生産量は300万反にのぼった。中国経済連合会のページはこれを「全国の7割を占めるほどであった」と記し(同、取得日2026-09-15)、福山市のホームページは「昭和30年代には年間300万反も生産され全国一の絣の生産量を誇っていました」と記している(福山市ホームページ「備後絣(びんごがすり)」、取得日2026-09-15)。「全国の7割」と「全国一」という二つの表現は矛盾しないが、その後どのように生産が縮小していったのかという年ごとの推移までは、どちらのページにも示されていない。今どれだけの量が織られているのかを示す一次資料は、今回見つからなかった。
備後絣協同組合という組合は解散したが、織り自体をやめた工房ばかりではない。中国経済連合会のページの「生産者組合/主な生産者」という項目には、備後絣協同組合に加えて「(合)橘髙兄弟商会」「森田織物」の名が挙げられている(同、取得日2026-09-15)。組合という看板が無くなった今、この名がどこまで現状を反映しているかまでは確認できなかったが、少なくとも複数の工房が名を連ねていたことは、この一次資料からわかる。
備後絣の下ごしらえは、生糸を煮てから藍や柿渋で染め、天日に干して色を糸になじませるところから始まる。経糸・緯糸のうち絣になる部分を竹の皮で巻いてくくり、染料が入らないようにしてから藍甕に浸す。最初に織られたのはこの方法で経糸の一部をくくって染めた「井桁模様」で、これが備後絣の起点になったと伝わる。染め上がった糸を今も受け止めているのが、昭和期に製造された旧式のシャトル織機で、1台で1日に織れるのはおよそ一反(約30メートル)ほどにすぎない。織り手はその日の糸の伸び具合を見ながら手加減で打ち込み、染めムラが出ないよう糸の浸け具合を毎回見極める。旧式の織機は自ら整備しながら使い続け、部品が壊れれば自作して直すことも珍しくないという。
備後絣を織り続けてきた広島県福山市の隣、岡山県井原市は「デニムの聖地」として知られる。井原市観光協会のページによれば、井原市は江戸時代中期から藍染織物の産地で、明治〜大正期には「備中小倉」というブランドの厚地藍染綿織物が学生服・作業服の生地として大量生産され、海外にも輸出されていた。そのバリエーションのひとつに、表面が藍色、裏面が白色(生成)の厚地織物「裏白」があり、これが米国で「DENIM」と呼ばれていたものと同様のもので、国産デニムのルーツとされる(井原市観光協会「デニム」、取得日2026-09-15)。終戦後、GHQが持ち込んだ米国文化とともにジーンズ生産が始まり、昭和45年(1970年)ごろには年間1500万本、国内生産の75%を井原市だけで生産するまでになったという(同、取得日2026-09-15)。
備後地域地場産業振興センターのページに載る広島県織物工業会の紹介文も、福山市・府中市一帯の「備後機業地」について「藍染めの技術を活かした綿デニムを中心に…特に綿デニムは全国の50%のシェアを占め、日本一のデニム産地として発展しております」と記している(備後地域地場産業振興センター公式サイト、取得日2026-09-15)。江戸時代からの藍染め・絣の技術が、そのままデニムという別の産業の土台になったということになる。
絣という技法自体は日本だけのものではない。インドネシアやインドにも、糸をあらかじめ部分的に防染してから織り、輪郭のにじんだ幾何学模様を布に表す「絣(イカット)」の織元がある。ただし海外の絣は、絹地を使い、動物や人物を描いた複雑な絵柄を儀礼・祭祀用の高級品として発達させることが多い。一方の備後絣は、経糸・緯糸のくくる部分を竹の皮で巻いて防染し、藍で染めてから織ることで「井桁絣」のような幾何学模様を出す。木綿の産地であった備後地方で、日常着・野良着として大量生産される実用品として発達したためだと考えられる。
備後絣を織る機屋は現在2社にまで減っているが、若い後継者が技術を引き継いでおり、絣の柄そのものをデニムの意匠に取り入れる試みも行われているという。ただし、この「後継者がいる」という話を具体的な人数や年齢まで裏づける一次資料は、今回の材料の中には見当たらなかった。組合という受け皿が無くなった今、技術がどのような形で次の世代に渡っていくのかは、確認できないまま残っている。
English: Bingo-gasuri (Bingo ikat cotton)(A Bingo-gasuri weaver wraps bamboo bark around bundled cotton threads to resist the indigo dye, producing the blurred geometric patterns of one of Japan's three great ikat textiles, now down to a handful of looms.)