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鍋島緞通織り手世界の似たサービス ─ ペルシャ絨毯職人(イラン・トルコの手織り絨毯職人)
江戸元禄年間(1688〜1704年)
共通の目的糸を一本一本結び上げ、床に敷いて座す・くつろぐための厚みのある敷物を作る
やり方が、どう違うのか
⚠ 「使う道具」「使う素材」は日本側のみ調べています(世界側は同じ条件で確かめられていないため、
世界側の比較値は作っていません)。
もうひとつの世界の対比例=中国の絨毯織り、赤穂緞通・鍋島緞通と並ぶ日本三大緞通の一つ堺緞通(大阪)
なぜ違いが生まれたのか
日本は畳の上に座す文化のため薄手で座布団・茶席用の木綿敷物として発達し、ペルシャ・トルコは遊牧・乾燥地帯の保温性を重視して厚手の羊毛絨毯が発達した
五感で味わう価値・職人のこだわり
- 出会える舞台・空間|佐賀市大和町の本家鍋島緞通・吉島伸一鍋島緞通株式会社。大正元年、1912年に吉島正敏が佐賀市赤松町で創業し、2006年にふたたび赤松町へ戻った。昭和29年に一度は久留米市へ移り緞通づくりが中断したが、昭和42年に3代目の吉島伸一が母とともに操業を再開した。佐賀市松原の公益財団法人鍋島報效会・徴古館は、蟹牡丹唐草文を織り出した江戸から明治前期にかけての緞通、縦186.8センチ横93.7センチを収蔵している。ショールームには江戸時代から受け継がれてきた伝統文様と、現代の暮らしに合わせた新しいデザインが並ぶ。
- 五感|経糸をつまみ上げ、染めた織込糸を絡ませて鋏で切りそろえていくパイルの手触り、一段ごとに締め金で緯糸を叩き締める音。熟練の職人でも1日に数センチしか進まない、ゆっくりとした時間の積み重ね。白地に紺、青、水色、薄茶で織り出された向き合う蟹牡丹、唐花牡丹、蔓牡丹、蟹唐草、龍唐草、竹笹文といった文様が浮かび上がる、上質な木綿糸ならではの柔らかな光沢。本間畳一畳分、95センチ×191センチほどの大きさで、数十万円から200万円を超える値がつく重み。
- 異常なこだわり|方眼紙に文様を描いて図案を作ったうえで、経糸と緯糸、文様に合わせて染めた織込糸をそれぞれ規格の太さに撚り、一目一目すべて手で織り上げる。織り上がるまでに1か月以上かかるが、それでも密度を均一にするため一段ごとに締め金で叩き締める手間を省かない。素材は佐賀県白石の干拓地で栽培されていた上質の綿糸にこだわり、地機という織機と杼を使って緯糸を通し、蟹牡丹をはじめ唐花牡丹・二対牡丹・亀甲に唐花文など江戸時代から伝わる文様を今も守り続けている。
- 外国人の驚き|熟練の職人が1日かけて織り進められる幅がわずか数センチしかなく、1枚仕上げるのに1か月以上かかるという生産効率の低さ。経糸をつまみ上げて織込糸を絡ませ鋏で切るという一目一目すべて手作業の工程を、機械化せずに続けていること。中央アジアからトルコ、中国を経て佐賀に伝わった技術が、外国人から教わった使用人を通じて日本人の職人に受け継がれ、350年近く先の今も同じ手順で織られていること。江戸時代には将軍家への献上品に指定され、一般の人が買うことすら許されていなかったという歴史にも驚かされる。
- 豆知識|鍋島緞通の始まった時期について、佐賀県公式は「江戸時代初期」とする一方、鍋島家の資料館である徴古館や吉島家は「元禄時代」と伝えており、記述が食い違っている。佐賀城下郊外の嘉瀬郷扇町村で作られ始めたこの緞通は、江戸時代を通して佐賀藩御用として将軍家への月次献上品に指定され、一般への売買は禁止されていた。明治になって売買が解禁されると、大島貞七という実業家が大々的に販売を手がけ、明治6年、1873年にはウィーン万国博覧会にも出品された。大正時代には吉島正敏商店と原田商店が創業し、製造販売を家業とする商店が確立された。創業は大正元年、1912年で、佐賀県の資料は1910年としており、ここにも数年のずれがある。
もし消えたら、何が失われるのか
失われるもの(数字にならないもの)
江戸元禄年間に佐賀藩御用として保護され、将軍家への献上品にも指定された歴史と、手織りで1か月かけて1枚を仕上げる技術という選択肢が失われる
いま直面している問題
後継者不足、1枚あたり約1か月という生産効率の低さ、木綿糸の調達
出典
産地|佐賀県佐賀市(佐賀県) 世界の対比先|中東
English: Nabeshima dantsu (Nabeshima hand-knotted rug)(Nabeshima dantsu are cotton rugs hand-knotted over roughly a month, once reserved exclusively for the Saga domain lord and forbidden for ordinary sale.)